杜預が石鑑に逆らって免職されたあと、隴右の情勢は杜預の言ったとおりとなったので、朝廷で杜預は軍略にあかるいと評判になった。のち、匈奴の劉猛がヘイ(并)州以西・河東・平陽で反乱をおこした。杜預は度支尚書を拝し、新兵器開発やその地域の穀物・塩の安定供給・税制をととのえ後方支援に尽力した。
ところが石鑑が軍を帰すと、杜預が「石鑑は論功が不実である」と糾弾したので、石鑑は杜預を恨み、ついには喧嘩となったため、杜預・石鑑ともに免職となった。

前後関係がわかりにくいです。
上の前回のあらすじにある劉猛の乱が272年正月〜273年正月のあいだのことで、羊祜が車騎将軍になったのが273年7月以降(それまで車騎将軍(定員1名)をしていた賈充が司空に昇進したという記述があるだけで、羊祜がいつ車騎将軍になったかは明記されていません)、同9月から西陵の戦いというのがこのあたりの大まかな流れです。