>(非公開コメ)
いつもかきこみありがとうございます。わたしの文章構成能力が乏しいのがいけないのですが、、どうにもダラダラ長文を書いてしまう人間なので、自陣引きこもりは失礼かとは思いますがここにてお返事をさせていただきます。
あと、これでもかなり削ったほうなので、、、、アッヒャッヒャ!ヽ(゚∀゚)ノアッヒャッヒャ!
三国志演義について個人的な意見。四角いよりも丸いほうがカワイイという理由で丸を採用する人間なのでとてもいい加減なんですけど、
正史と演義とのちがいは、演義が年代を経るにつれてよりお客にウケるようアレンジされていったという点をのぞけば
・紀伝体か編年体か
・作者がプロの歴史家か歴史家にあこがれる戯曲作家か
・勝者の目線か敗者の目線か
というところだとおもいます。
正史も、陳寿が生きていた年代の関係で当事者のお子さんお孫さんとかヘタすりゃ本人が読んじゃうので、本当のことが書けなかったという事情がありますから、客観性をもっているという点では演義も捨てられないとおもいます。演義と正史で記述が違っていることがあったら正史のほうが正しいだろう、くらいの気構えでいいのではないでしょうか。正史だって孫堅は本当は玉璽拾ってないんじゃないかという疑惑があったり、本当に信用できるのかどうか怪しいですし、、ほんの60年ほど前のことのはずなのに南京大虐殺が本当にあったかどうかすらわからないのが歴史ですもの。魏が正統か蜀が正統か、立場の違うふたとおりの意見を付き合わせるという意味では、つきあわせて読むのがどちらか一方しか信用しないというのよりもいいのではないでしょうか。
また、三国志にあまり詳しくない人が持っているイメージはだいたいが演義に基づいたものであるので、その人がどういう誤解をもっているかというのが想像しやすく、演義を把握していれば会話の上ですれ違いが起こりにくくなるというメリットもあるため、演義もバカにできんよ!とまずは熱弁させていただきます。
あとあまりにもアレなことですが‥三国志演義にみえる誤字についてですが、中国人物書きには忌み名というハンデがあるので暖かい目でみてあげましょうよw
あれをいちいち直すってえらい大変ですから‥
前置きココまで
続きは本文
まず演義における艾謀殺直前のおおまかなストーリー。
鍾会と姜維がやりあっている間にさっさと艾が成都を落としてしまった。その知らせを聞いた兵士たちはみなはげしく泣き叫んだので、姜維はまだ人々の心が蜀漢にあると悟り、起死回生の一手を胸に鍾会に降って、孔明直伝の(?)ウソ泣きでたぶらかして義兄弟の契りをかわす。すると艾は大激怒した。姜維に対して激しいライバル心をもっており、決着をつけたいと思っていままでやってきたのが、鍾会にかっさらわれる形になってしまったのが納得できなかったのだ。また、姜維という名将を降伏させるという功績を鍾会にとられたのが気に食わない。そこでさらなる功績をもとめて、いますぐ呉を攻めさせてくれという手紙を司馬昭に出す。司馬昭は、「なにごとも朝廷からの決裁を待って、独断で行動してはならぬ」と直筆の手紙で艾をなだめるが、艾は臣外にあっては君命といえども受けざるところありと聞き入れようとしない。すでに魏国内には姜維の流言で「艾謀反の気配あり」という空気ができあがっていて、司馬昭は当然のように艾を疑っていた。そこに鍾会から艾の専横を訴える手紙が来たので、疑惑は確信にかわり、ついに艾をとらえよと命令を発するにいたる。
姜維の起死回生の一手とは、前にも申し上げました「鍾会に艾を殺させ、蜀の実権をにぎらせ、その後鍾会を殺して蜀を奪い返す」というものです。そのため、艾と鍾会・司馬昭とを離間にかけたと。
この部分だけ切り取ってもわかりにくいとおもうので、ここにいたるまでの前提を。
・艾と鍾会、ともに生きて蜀から帰れないという予言をされている→二人とも「蜀から出なかったらいいんじゃね?」とおもっている→二人とも蜀のトップになりたい
※なのに呉にいきたいという艾の手紙は矛盾している‥鍾会のニセ手紙だからか?
・司馬昭は情にながされやすくてだまされやすいタイプ(なんとなくそんなイメージ)
・鍾会が勝手に艾の部下を殺したので、二人の仲はすこしこじれている→まぁ戦の途中で仲たがいしてもアレだし、その件についてはあとでジックリ語り合おうやないか!という空気があった
あと、ほんとーにくだらないのですが、くだらないことほど深く人の心に突き刺さるというわたしの持論にもとづいた解釈ということで、、
・鍾会は喪男だったので、イケメンだった艾が気に食わなかった
鍾会は225年生まれなので、蜀がおちた264年で39歳です。当時は15〜20歳ごろで結婚し、子供をのこすことが考の道であり、跡継ぎがいないのは家系をたやすという許されざる不孝であったのですが、鍾会は独身子無し。生涯独身をつらぬいたとされる趙雲でさえ子供はいた(=妾に生ませた)のに‥
特技が文書偽造で、コマカイ悪いこといっぱいしてて性格がすさまじく悪かった上に顔もよくなかったので(当時は人間は見た目が十割・才能が顔に出るとされていたので美形だったら絶対記録が残る)モテなかったのではないかという勝手な解釈です。
艾は、おとがい角ばり〜という、孫堅と同じタイプの「人並みならぬ容貌」であったという記録があります。ソース演義だけど。あと、美形の誉れ高い羊祜のことも、鍾会、イジメてます。なので、イケメンが嫌いだったという、、、
身分や家柄がたかくとも容姿がマズかったためになかなか結婚できなかった黄月英の例を参考にした論理なんですが、、、
ごめんなさい。
ま、とにかく、もともと亀裂があった艾と鍾会ですが、姜維がくだったことで艾がブチ切れてしまいケンカになってしまったと。
黒幕は司馬昭説ですが、
司馬昭は、息子・司馬炎(若い)の代で帝位簒奪をねらっていたので、当時60代後半とおもわれるほっといても死んでしまう艾をわざわざ謀殺する必要があるかと言われると疑問です。
ただし司馬昭の背後には、260年、魏皇帝・曹髦のうらみの詩を司馬昭にチクって曹髦を殺させ、陳泰に「腰斬すべし」といわれてしまった賈充がおります。この賈充という人は、功にものすごく貪欲なようで、蜀も、本当はもっとまえに攻める計画があったのですが、曹髦弑逆をねじこんでその計画をキャンセルさせ、そのあとあらためて「姜維を暗殺しよう」と献策します。それが却下されて、艾と鍾会が出兵して正攻法で蜀を攻めることになったのですが‥。
このことから、自分の策が却下されて艾たちが蜀をとったというのだけでも気に入らないのに、さらにその艾が命令を無視してでも呉を攻めると言ったから司馬昭をそそのかして殺させた、ということがあるかもしれん、と考えます。陳泰ともめたので、仲良しだった艾をうっとうしくおもっていた可能性もあります。
陳泰も「賈充殺せ」って言った直後に血を吐いて死んだというアヤシさ抜群の説があるし。裴松之も「ねーよwwwww」って言ってますが。
このあたり、調べがまだ不十分なため、話半分で聞いてくださいませ。
>最も熱いアモーレ
三国志にアモーレ自体がシュールすぎるのでどれがアツイというのは考えたことがありませんでした!もう一度蒼天読まなあかんやん!!
もっともツボったシーンなら、漢中王っていう字がドーンとぶつかってくるシーンですけど、、んちゃ砲みたいで。
ネタ三国志は、すごく好きです、、、ニコニコ動画の横光コラ動画は定期的に見ますよ!ジャイアントロボのスーツ姿のドス黒い孔明も大好きですし、三国志NOWだ!とかKOEI満漢全席といったドラマCDもききます。
ネタというのも何ですが真・恋姫無双の発売もまちどおしくてたまりません。
>姜維
中国的天命観いうよりは、日本的な判官びいき精神と孔明をあがめる風潮が姜維を持ち上げてるとおもってました、、あと魏延しか有能な武将がいないっていうのが、アンチ魏延の多い中国では受け入れられなかったので、魏延より優秀な将として姜維を演出した、とか。
でもなんというか、二十歳(三十路というパターンもありますが)にならぬ美少年という形容と「わしの八卦陣は365通りあるぞ!」というセリフなどからテニプリっぽいイメージがどうにも離れません。
>陳泰さんのお年
陳羣の生年はよくわからないんですけど、190年代、徐州の劉備に登用されたというのがたぶん一番最初の記録でしょう。そのまえは、お父様と逃亡生活をおくっていた、という話です。
当時は20歳くらいで結婚・地方に就職して、30歳くらいで中央に仕官というのが普通というのをおもうと、陳泰さんは字が玄伯で長男なので、生まれは早くて190年代かとおもわれます。
訳があいまいなので勘違いしている可能性が高いのですが、正史の文脈ですと、198年ごろ、荀イクが曹操に陳羣をすすめた→陳羣、荀イクの娘を娶るという順番のように感じますので、陳泰の生年は199年以降(デキ婚じゃないとして)と考えるのがよいようにおもいます。
ただ、荀家と陳家はなにかとつながりがあるそうなので、就職前に結婚している可能性も否定し切れません。もちろん、甲斐性なしに娘はやれんと言われちゃって、陳羣がええトシになるまで独身でいた可能性や、忙しくて子供作るヒマなかったーという可能性もあるので、200年をとうに超えた生年であるとこも考えられるのですが、、子供の生年と親の没年の差が前後一年内ということも、ある世界ですし、、三国志。
>バトロワ三国志
大事なのは面白いことと制服が原作準拠の学ランセーラー服であるか映画のBA-TSUブレザーであるかであってほかの事は重要ではありません!たぶん。
ナニやっても、「袁術がクラウザー」に勝る意味不明さには負けることはないとおもいますよ。
1だけ全部よみましたよー 陳泰食われてんじゃねーかよ!とはげしくツッコミ。これからほかの回もよみます!
>ようこたん一騎討ち「元凱の限界は1.5c」
コイツは連突にちょうどいいので、異常なまでに一騎討ちおこりますよね、、、羊祜vs羊祜とか出たらもう、、、
しかし勇猛ついてないうえに武力があんまりたかくないのでいつも大地にかえされるのは自分。
つか 司馬懿も一騎討ちおこるんですかっ!?LE?
まず演義における艾謀殺直前のおおまかなストーリー。
鍾会と姜維がやりあっている間にさっさと艾が成都を落としてしまった。その知らせを聞いた兵士たちはみなはげしく泣き叫んだので、姜維はまだ人々の心が蜀漢にあると悟り、起死回生の一手を胸に鍾会に降って、孔明直伝の(?)ウソ泣きでたぶらかして義兄弟の契りをかわす。すると艾は大激怒した。姜維に対して激しいライバル心をもっており、決着をつけたいと思っていままでやってきたのが、鍾会にかっさらわれる形になってしまったのが納得できなかったのだ。また、姜維という名将を降伏させるという功績を鍾会にとられたのが気に食わない。そこでさらなる功績をもとめて、いますぐ呉を攻めさせてくれという手紙を司馬昭に出す。司馬昭は、「なにごとも朝廷からの決裁を待って、独断で行動してはならぬ」と直筆の手紙で艾をなだめるが、艾は臣外にあっては君命といえども受けざるところありと聞き入れようとしない。すでに魏国内には姜維の流言で「艾謀反の気配あり」という空気ができあがっていて、司馬昭は当然のように艾を疑っていた。そこに鍾会から艾の専横を訴える手紙が来たので、疑惑は確信にかわり、ついに艾をとらえよと命令を発するにいたる。
姜維の起死回生の一手とは、前にも申し上げました「鍾会に艾を殺させ、蜀の実権をにぎらせ、その後鍾会を殺して蜀を奪い返す」というものです。そのため、艾と鍾会・司馬昭とを離間にかけたと。
この部分だけ切り取ってもわかりにくいとおもうので、ここにいたるまでの前提を。
・艾と鍾会、ともに生きて蜀から帰れないという予言をされている→二人とも「蜀から出なかったらいいんじゃね?」とおもっている→二人とも蜀のトップになりたい
※なのに呉にいきたいという艾の手紙は矛盾している‥鍾会のニセ手紙だからか?
・司馬昭は情にながされやすくてだまされやすいタイプ(なんとなくそんなイメージ)
・鍾会が勝手に艾の部下を殺したので、二人の仲はすこしこじれている→まぁ戦の途中で仲たがいしてもアレだし、その件についてはあとでジックリ語り合おうやないか!という空気があった
あと、ほんとーにくだらないのですが、くだらないことほど深く人の心に突き刺さるというわたしの持論にもとづいた解釈ということで、、
・鍾会は喪男だったので、イケメンだった艾が気に食わなかった
鍾会は225年生まれなので、蜀がおちた264年で39歳です。当時は15〜20歳ごろで結婚し、子供をのこすことが考の道であり、跡継ぎがいないのは家系をたやすという許されざる不孝であったのですが、鍾会は独身子無し。生涯独身をつらぬいたとされる趙雲でさえ子供はいた(=妾に生ませた)のに‥
特技が文書偽造で、コマカイ悪いこといっぱいしてて性格がすさまじく悪かった上に顔もよくなかったので(当時は人間は見た目が十割・才能が顔に出るとされていたので美形だったら絶対記録が残る)モテなかったのではないかという勝手な解釈です。
艾は、おとがい角ばり〜という、孫堅と同じタイプの「人並みならぬ容貌」であったという記録があります。ソース演義だけど。あと、美形の誉れ高い羊祜のことも、鍾会、イジメてます。なので、イケメンが嫌いだったという、、、
身分や家柄がたかくとも容姿がマズかったためになかなか結婚できなかった黄月英の例を参考にした論理なんですが、、、
ごめんなさい。
ま、とにかく、もともと亀裂があった艾と鍾会ですが、姜維がくだったことで艾がブチ切れてしまいケンカになってしまったと。
黒幕は司馬昭説ですが、
司馬昭は、息子・司馬炎(若い)の代で帝位簒奪をねらっていたので、当時60代後半とおもわれるほっといても死んでしまう艾をわざわざ謀殺する必要があるかと言われると疑問です。
ただし司馬昭の背後には、260年、魏皇帝・曹髦のうらみの詩を司馬昭にチクって曹髦を殺させ、陳泰に「腰斬すべし」といわれてしまった賈充がおります。この賈充という人は、功にものすごく貪欲なようで、蜀も、本当はもっとまえに攻める計画があったのですが、曹髦弑逆をねじこんでその計画をキャンセルさせ、そのあとあらためて「姜維を暗殺しよう」と献策します。それが却下されて、艾と鍾会が出兵して正攻法で蜀を攻めることになったのですが‥。
このことから、自分の策が却下されて艾たちが蜀をとったというのだけでも気に入らないのに、さらにその艾が命令を無視してでも呉を攻めると言ったから司馬昭をそそのかして殺させた、ということがあるかもしれん、と考えます。陳泰ともめたので、仲良しだった艾をうっとうしくおもっていた可能性もあります。
陳泰も「賈充殺せ」って言った直後に血を吐いて死んだというアヤシさ抜群の説があるし。裴松之も「ねーよwwwww」って言ってますが。
このあたり、調べがまだ不十分なため、話半分で聞いてくださいませ。
>最も熱いアモーレ
三国志にアモーレ自体がシュールすぎるのでどれがアツイというのは考えたことがありませんでした!もう一度蒼天読まなあかんやん!!
もっともツボったシーンなら、漢中王っていう字がドーンとぶつかってくるシーンですけど、、んちゃ砲みたいで。
ネタ三国志は、すごく好きです、、、ニコニコ動画の横光コラ動画は定期的に見ますよ!ジャイアントロボのスーツ姿のドス黒い孔明も大好きですし、三国志NOWだ!とかKOEI満漢全席といったドラマCDもききます。
ネタというのも何ですが真・恋姫無双の発売もまちどおしくてたまりません。
>姜維
中国的天命観いうよりは、日本的な判官びいき精神と孔明をあがめる風潮が姜維を持ち上げてるとおもってました、、あと魏延しか有能な武将がいないっていうのが、アンチ魏延の多い中国では受け入れられなかったので、魏延より優秀な将として姜維を演出した、とか。
でもなんというか、二十歳(三十路というパターンもありますが)にならぬ美少年という形容と「わしの八卦陣は365通りあるぞ!」というセリフなどからテニプリっぽいイメージがどうにも離れません。
>陳泰さんのお年
陳羣の生年はよくわからないんですけど、190年代、徐州の劉備に登用されたというのがたぶん一番最初の記録でしょう。そのまえは、お父様と逃亡生活をおくっていた、という話です。
当時は20歳くらいで結婚・地方に就職して、30歳くらいで中央に仕官というのが普通というのをおもうと、陳泰さんは字が玄伯で長男なので、生まれは早くて190年代かとおもわれます。
訳があいまいなので勘違いしている可能性が高いのですが、正史の文脈ですと、198年ごろ、荀イクが曹操に陳羣をすすめた→陳羣、荀イクの娘を娶るという順番のように感じますので、陳泰の生年は199年以降(デキ婚じゃないとして)と考えるのがよいようにおもいます。
ただ、荀家と陳家はなにかとつながりがあるそうなので、就職前に結婚している可能性も否定し切れません。もちろん、甲斐性なしに娘はやれんと言われちゃって、陳羣がええトシになるまで独身でいた可能性や、忙しくて子供作るヒマなかったーという可能性もあるので、200年をとうに超えた生年であるとこも考えられるのですが、、子供の生年と親の没年の差が前後一年内ということも、ある世界ですし、、三国志。
>バトロワ三国志
大事なのは面白いことと制服が原作準拠の学ランセーラー服であるか映画のBA-TSUブレザーであるかであってほかの事は重要ではありません!たぶん。
ナニやっても、「袁術がクラウザー」に勝る意味不明さには負けることはないとおもいますよ。
1だけ全部よみましたよー 陳泰食われてんじゃねーかよ!とはげしくツッコミ。これからほかの回もよみます!
>ようこたん一騎討ち「元凱の限界は1.5c」
コイツは連突にちょうどいいので、異常なまでに一騎討ちおこりますよね、、、羊祜vs羊祜とか出たらもう、、、
しかし勇猛ついてないうえに武力があんまりたかくないのでいつも大地にかえされるのは自分。
つか 司馬懿も一騎討ちおこるんですかっ!?LE?